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2021年3月30日火曜日

参考資料等(中学受験)第13章 高校受験と内申書(調査書)問題

 第13章 高校受験と内申書(調査書)問題


 第1節 内申書評価への不信感
 第2節 担任ガチャに当たるか外れるか
 第3節 内申美人と内申ブス
 第4節 もともと受験戦争を回避するためだった内申書

内申書はもともと、受験戦争を回避するため戦前(1927年と1939年)に導入されたというおおたとしまさ氏の記事。しかしブラックボックス化して大混乱の末に失敗したと書いてあります。人が人を評価するって大変ですよね。ペーパーテストだけで済めば楽で公平にも思えるのですが。

そして日本の教育制度はもともと中高一貫だったので、今の形態は「中高分離校」と呼ぶ方が正しいとのこと。これは知りませんでした。

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2015/03/25 8:00
「開成」「灘」が名門校になった理由
PRESIDENT Online
おおた としまさ

つまり戦前にはすでに、現在の中学受験に相当する旧制中学受験があり、現在の大学受験に相当する旧制高校受験があった。現在の高校受験に相当するものはなかった。実はこれが世界標準である。日本の高校受験のようなものは先進国の教育制度においてはほとんどない。もともと初等教育(小学校)と高等教育(大学以上)の間の中等教育は、それはそれでひとくくりにされるのが一般的だ。

ちなみに、中学受験があまりに熾烈だったため、中学受験ノイローゼのような小学生が増えたことがたびたびあった。そのため文部省(当時)は、1927年と1939年にそれぞれ、中学入試における学科試験禁止の通達を出している。代わりに小学校からの報告書、人物考査、身体検査によって選抜を行うよう指示した。現在議論されている大学入試改革の方向性とそっくりである。

しかしいずれも大混乱を招いただけで、数年のうちにペーパーテストが復活した。改革は、なぜうまくいかなかったのか。そのことについては、拙著『名門校とは何か?』をご参照いただきたい。

「中高一貫校」というと、中学と高校を無理矢理接続した学校のように聞こえるが、実は、もともと1つだった中等教育のための旧制中学を真ん中で分断してしまったものが、現在の中学と高校なのだ。つまり「中高一貫校」と言うより「中高分離校」と呼ぶ方が、経緯的には正しい。

もともと12歳から17歳の生徒が在籍した旧制中学が、15歳から18歳の生徒を抱える新制高校に改組したため、下2学年分の生徒は居場所を失う。そこで、多くの新制高校では臨時の救済処置として期間限定の附属中学を設立し、彼らが新制高校に入学するまでの時間稼ぎをした。しかし同時に、学区制が敷かれたため、遠方から通う生徒は、せっかく受験して合格した公立進学校を追い出され、地元に新しくできた中学に編入されてしまうことがあった。
そこで灘は、神戸一中をはじめとする県下の公立進学校の生徒たちを無試験で迎え入れるという施策に打って出る。このことによって、学制改革の煽りを食った優秀な生徒たちをごっそり集めることに成功した。まさに彼らが華々しい大学進学実績を残し、灘は県下のトップ校の地位に躍り出たのだ。(略)
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「大学入試改革」は「中学入試改革」に学べ!すでに首都圏の約半数の中学で思考力型入試を実施
おおたとしまさ | 育児・教育ジャーナリスト
2019/11/28(木) 9:18

良かれと思って実行した施策がまったく思わぬ形でネガティブな効果をもたらすことはよくある。

記憶に新しいところではいわゆる「ゆとり教育」にともなう混乱であり、1979年の「共通一次試験」開始による大学の序列化であり、東京都においては1967年の「学校群制度」によって都立高校離れが生じたという事例もある。1961年には、現在の「全国学習到達度調査(通称:学テ)」に相当する「全国中学校一斉学力調査」が実施されたが、結局地域間競争の道具とされてしまい、1966年には中止が決定された。1927年と1939年には旧制中学の入試で学科試験が禁止されたが、むしろ入試のブラックボックス化が進み、結局元に戻った……などなど。

教育とは、ひとを育てる営みであり、それ自体が生き物のようなものだ。生き物は急には変われない。一気にOS(オペレーティングシステム)を変えられるコンピュータやスマホとはそこが違う。しかし生物は、変化が多様で遅い代わりに恒常性が働きやすく、変化に伴うバグを自ら然るべき形で修復できる。(略)
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 第5節 内申書偏重は「圧政」につながる
 第6節 「良い子でなくてはならない」強迫観念
 第7節 それでも解消されない「学校間の評価格差」

神奈川県で内申書が相対評価になってしまったことにより、学力の高い中学生たちが相応の高校に進めなくなった横国鎌倉中内申書事件の概要です。この事件は当時県下一の進学校であった湘南高校の大学進学実績にも影響を与えたとされています。

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https://tinyurl.com/yy8vjhsx

横浜国立大学附属鎌倉中学校内申書事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

横浜国立大学附属鎌倉中学校内申書事件(よこはまこくりつだいがくふぞくかまくらちゅうがっこうないしんしょじけん)とは、1976年(昭和51年)に横浜国立大学附属鎌倉中学校で起きた内申点をめぐる事件。 


横浜国立大学附属鎌倉中学校は、当時県下一の進学校として知られていた神奈川県立湘南高等学校へ毎年50〜60名程度の合格者を出しており、名門校である県立湘南高等学校への登竜門として知られ、優秀な生徒が集まっていた。このような一般の公立中学校より突出して多い合格者数に県議会やマスコミなどからの批判が高まり、「平等」や「公平」の名の下、鎌倉中学校で内申点の評価方法として使われていた絶対評価を改め、当時の公立中学校と同じ相対評価とするよう圧力がかかった。

しかし、学力上位層ばかりが集まる鎌倉中学校では、相対評価による内申点換算では公立中学と比べて著しく不利となってしまうことは自明であり、神奈川県で実施されていたアチーブメントテストでの点数が満点にもかかわらず、評価が1となってしまうなどの事態が急増した。

この結果、鎌倉中学校から実力相応の公立高校へ進学することは困難となり、県立湘南高等学校も激減[1]。県立湘南高等学校は、鎌倉中学校から入学した優秀な生徒が県下トップの東京大学合格者数を支えていたという事情もあり、次第に県立湘南高等学校の進学実績は衰退。学区の縮小や高校百校新設計画によるベテラン教員の流出なども追い討ちをかけ、神奈川県の公立高校の地盤沈下の一因にもなった。

^ 1975年に67名、1976年に65名いた県立湘南高等学校への進学者が、1981年に17名、1982年には14名と大幅に減っている。

(略)

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 第8節 内申・推薦に「向く生徒」「向かない生徒」
 第9節 内申書競争を避ける3つの方法


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