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2018年9月10日月曜日

高知能者のコミュニケーショントラブル:第8章 第1節 知能の高い学校、そして知能の高い職場へ

第8章 高知能者の幸せな生き方

 第1節 知能の高い学校、そして知能の高い職場へ

より、




(略) 
最も効果が高そうなのは、いわゆる偏差値の高い学校や職場に行くことです。そこでは知能指数が高い人が多く、殴られたりいじめられたりする確率がぐっと下がります。
特に難関校は、かなりASDADHDっぽい子供でも

お仲間がゴロゴロいて学校側も慣れている。
というか、先生もお仲間だらけ。
とのこと。

高度な趣味や会話が通じる仲間が増えたなら、毎日楽しくてしょうがないでしょう。昔のイヤな事をすべて忘れてしまうほど、夢中になれるものを見つけるに違いありません。自分自身や他人との接触に自信を持ち、斜に構えたりいじけたりするヒマすらなくなるでしょう。
理系の大学院などに行けば、周囲はもはや高知能者ばかりになります(*個人の感想です)。教授から学生までASDADHDぞろいなので、孤独を感じることもないでしょう。みにくいアヒルの子は、ついに白鳥の群れにたどり着いたのです!

(以下略)

高知能者のコミュニケーショントラブル:第7章 第2節 上位5%の知能がその国の経済に大きく貢献

第7章 高IQを扱えなくなった日本社会

 第2節 上位5%の知能がその国の経済に大きく貢献

より、




さらに面白い調査があります。
2011年に90カ国で行われた研究調査で、「人間の知能、特に最も賢い5%の人の知能が、その国の経済に大きく貢献している」ことが明らかになったそうです。

これは感覚的になんとなく知っていた人も多いでしょうが、そのような研究が出てくると「やっぱりそうか」と思ってしまいます。
というのも1990年代以降は情報技術の発達によって産業界のルールが変わってしまい、

  •   競争はグローバル
  •   スピード勝負
  •   勝者総取り


の傾向が強まったからです。

IT革命前は、そこそこの知能の人々が知恵を出し合って協力することが何よりも重要でした。いまだにそのような構造が残っている産業も多いです。
しかし今の情報技術や企業経営の世界では、一部の天才が能力を発揮できるようにサポートすることが勝利への近道なのです。
ひとりの天才が作ったソフトウェアは、100人のプログラマが莫大な資金と時間をかけて作ったものに勝ります。
ひとりの天才に率いられた企業は、ライバル会社をなぎ倒して市場の利益を独占します。

今の情報技術や企業経営の世界では、
一部の天才を周囲の人々が徹底的にサポートする
という体制の方が、勝利を得やすいというわけです。

(以下略) 

高知能者のコミュニケーショントラブル:第5章 第10節 高知能女子は「普通の女の子」に擬態する

第5章 高すぎる知能は一種の障害

 第10節 高知能女子は「普通の女の子」に擬態する

より


同じ高知能児でも、女の子の場合はまた別の問題が発生します。
というのも女社会は男社会以上に横並びであり、普通であることが求められるため、「頭が良くないふりをする女の子」が数多くいるそうなのです。
たとえば知っていることでもわざと知らないフリをしたり、テストで悪い点数を取ってみたり、「私バカだしぃ~」とアピールするようなのです。
高知能女子は「普通の女の子」に擬態する
ということです。他人の感情を敏感に読み取ることができる、女の子ならではの対応かもしれません。

また30年前ぐらいまでの日本では、そのようにしなければならない社会的風潮もありました。
その当時、女子にとって「頭が良い」「学歴が高い」ことは良い条件ではありませんでした。むしろ就職や結婚で不利になる可能性が高かったのです。
昔は大学進学率が低かったので、大学進学の時点でその時代のトップ3割には入っています。しかし実力通りに「四大卒の才女」になってしまうと、就職でも結婚でも男衆から敬遠される可能性がありました。そのためトップクラスの女子でもあえて女子短大を選び、学歴をわざとダウングレードしたのです。そのほうが良い会社に入って、良い旦那様を見つける可能性が高かったからです。
「この子は頭が切れるタイプではありませんよ。自己主張が強くありませんよ。良い奥さんになれますよ」と、世間にアピールしなければならない時代だったのでしょう。その頃の女子短大には偏差値にして40-60ぐらいの「普通の女の子」と、60-75近辺の「普通の女の子に偽装した高知能女子」が混在していたと言われています。
だから「お母さんは短大を卒業した普通の主婦」だと思っていたら、実は知能指数や学力がとんでもなく高かったという話をしばしば耳にするのです。
(以下略)

高知能者のコミュニケーショントラブル:第4章第8節 IQ120がリーダーに最適

第4章 みにくいアヒルの子 - 高知能児の苦悩

 第8節 IQ120がリーダーに最適

より、



ある研究によると「知能指数が120ぐらいの人こそリーダー向き」で、それより高くなると周囲の理解を得にくくリーダーシップを発揮しにくいとのこと。
これは何となくわかる気がします。
知能指数120といえば、学力偏差値で63.3にあたります。図表 5を見てもわかるように、100人いれば上から数えて9番目の知恵者です。人間が10人いればそのうちひとりぐらいは存在する、「どこにでもいる小集団のリーダー」ということになります。
もうひとつ重要なのは、この人々は「高知能者でありながらコミュニケーショントラブルが生じにくい水準にある」ことです。というのも「知能指数が20以内であればコミュニケーションできる」ので、知能指数140から100の人々をカバーできます。これは図表 7を見てわかるように、実に全人口の49.6%にあたります。

「上位10%以内に入る知能を持ち、かつ知能が比較的高い約5割の人々とコミュニケーションできる」

これは民主制度において、すさまじい強みとなります。最もコミュニケーション範囲が広い知能指数100の人でも、約8割のカバー率なのです。そこから知能が高くなるにしたがってコミュニケーションに問題が発生しますが、そのデメリットが大きくならない範囲で高知能のメリットを生かすことができる水準なのでしょう。
またノーベル賞受賞者の知能指数も飛び抜けて高いわけではないようで、平均すると120ぐらいと言われています。そして東大生の平均IQ120ぐらい。学問や研究の世界でも単に知能指数が高いだけでなく、「ひとつのことに打ち込む姿勢」や「コミュニケーション能力」を備えていることも必要なのかもしれません。

知能指数120は各地・各年代に散らばっている現場のリーダーたちと共感し、協力を得やすい最適なレベルなのでしょう。
(以下略)

高知能者のコミュニケーショントラブル:第3章第8節 会話の形をしたマウンティング

第3章 摩擦の原因は「マウンティング目的の会話」
第8節 会話の形をしたマウンティング

より、



ここでひとつ、仮説を立ててみましょう。
高知能者の反対側にいる人々にとって、会話の目的は
「序列の確認」
なのではないかと思うのです。
会話の形を取ってはいるが、
その本質はマウンティング
ということです。

そう考えると、確かに説明できることが多くなります。
高知能者にとっての会話の目的は、原理原則の理解と問題解決。あるいはそのための技能や情報の習得
であることが多いです。
だから意見が違っても「別解」として参考にしますし、意見を述べてくれたことに感謝します。会話という手段を使い、同じ目的に向かって進む仲間だと認識します。お互いに言いたいことを邪魔せず、本筋を大切にして、とんとん拍子に進みます。それを習慣にしているため、ますます賢くなってゆくのです。

一方、その反対側にいる人々は違います。
彼らの会話の目的は、自分が優位であることを示すマウンティング行動。
つまり「相手が自分の優位を認めてひれ伏したかどうか」が重要なのです。
ですから話の中身はどうでも良くて、相手の言葉尻を捉えては難癖をつけます。何か言い返されたら倍にして言い返します。最終的に相手を黙らせることができたなら自分の勝ち。争いはその場だけで終わらず、その後も悪口を言いふらしたり、いやがらせをしたり、集団で襲ったりして絡み続けます。相手の家族や勤務先にいやがらせを続け、生活できなくすることも平気です。
世の中には「口論するうちに相手を殺してしまった」事件がしばしば発生します。口で決着がつかないのであれば暴力でという考えであれば、最後にはそのような結果になってしまうのでしょう。

では仮に、この2種類の人が会話をしたらどうなるか?
(以下略)

高知能者のコミュニケーショントラブル:第2章第2節 コミュニケーションの悩みは非対称


第2章 高IQから見た世界(非対称コミュニケーション)

 第2節 コミュニケーションの悩みは非対称

より、



(略)

知能が高い者同士の会話では、「儀礼」「心遣い」「あいまいさ」「感情」といった余計な部分がそぎ落とされて行きます。
情報とアイディアが飛び交う高速通信
のようになって来るのです。
自分に対しての失礼や、思いやりに欠ける発言があっても気にしません。有用な情報を得るメリットや、解決策に到達するゲームの楽しさに比べたらごく小さなことだからです。
彼らはときどきユーモアを交えて大笑いしますが、話のテンポを損なうことはありません。軸がブレることなく、ともに目的に向かって一直線に動いているのです。

しかしこの違いを知らないまま、普通の人と高知能の人が会話をしたらどうなるでしょうか?
普通の人は、高知能の人に対して「無礼」「思いやりがない」「わけわかんない」「とにかく不愉快」という印象を持つはずです。
プロ野球選手がボールを普通に投げ返したとしても、一般人にとっては「殺人的な攻撃」と感じられます。その「攻撃」をやめさせるのに精いっぱいで、「何を伝えようとしているのか」まで考える余裕はないでしょう。普通の人々から見れば、高知能者たちは上から目線で抽象的な話を続けたかと思えば勝手に結論を出して自己満足しているように見えます。普通の人々は自分がないがしろにされたような感じで、「馬鹿にするな!」と怒ってしまうのです。
逆に高知能者から見ると、普通の人が「なぜそんなことにこだわって怒り出すのか」が理解できません。表面的な現象や形式にとられてしまい、本質や根本原因を追求しないことに驚きます。「こういう考え方もあるよ」と意見を言うと、「わからない」「興味ない」「誰もそんなこと考えてない」「俺に意見しようってのか」と拒絶されます。最悪の場合は集団でいじめられたり、暴力を振るわれてしまうのです。

このように「(知能が)下が上に対して」「上が下に対して」で感じることがそれぞれ異なることが、この問題の難しいところです。
知能指数が20以上違うと、コミュニケーションにおいて非対称な問題が発生する
ということです。




高知能者のコミュニケーショントラブル:第1章第4節 知能が高くなると友達が減る


第1章 知能が高くなると友達が減る

 第4節 知能が高くなると友達が減る

より、



(略)
そうであれば平均的な知能指数100の人は、知能指数が80から120までの範囲をカバーできます。実に総人口の81.8%と会話が成立するわけです(図表 6)。
そのうち自分よりも賢い人が半分、そうでない人が半分ですから、教えたり教えられたりで「持ちつ持たれつ」の関係となります。まさにコミュニケーションの中心を担う存在となれるのです。

図表 6 知能指数100の人は、82%の人々と会話が成り立つ

しかし知能指数が100から外れるほど、会話が成り立つ人の比率が減ってしまいます。たとえば図表 6のカバー範囲が右にずれたなら、面積が減ってしまうことが容易にわかるでしょう。つまり知能指数が上がるほど話が通じる人の割合が低くなり、通じたとしても自分が教える立場になることが多くなってしまうわけです。
そのことを示したのが図表 7です。知能指数が100から離れるほど、知能指数の上下20がカバーする比率、つまり話が合う人の比率は低くなって行きます。

図表 7 知能指数と上下20%カバー率




たとえば知能指数130のカバー範囲は110から150までなので、約25%の人としか会話が通じません(図表 8)。しかも自分より高い人は2.2%しかおらず、低い人は23%です。話が通じる人ばかりを集めたとしても、自分より低い人が91%と大多数になります。このような人は会話に気を使いながら人々に接し、責任を持って仕事をする立場になることが多くなることでしょう。

図表 8 知能指数130の人は、25%の人々としか会話が通じない


さらに知能指数160になると、140から180の人としか話が通じません(図表 9)。人口比にすれば実に0.4%250人にひとりしか友達になれないのです。たとえ25千人の中からそのようなな人を何とか100人集めたとしても、自分より知能指数が高い人はそのうち一人いるかどうかです。気兼ねなく話せる友人は少なく、いつも取引先と話しているように気をつかっていることでしょう。

図表 9 知能指数160の人は、話が合う人がほとんどいない


これほどまでに話が通じる人が少ないのなら、変人扱いされたりいじめられたりすることも増えると思います。

高知能者の孤独感や疎外感は、人々の想像をはるかに超える
と考えて間違いないと思います。

高知能者のコミュニケーショントラブル:まえがき:「IQが20違うと会話が通じない」は本当か


まえがき:「IQが20違うと会話が通じない」は本当か






近年ネットで、こんなことが言われています。
知能指数が20違うと
会話が成り立たない
これは本当でしょうか?

想像してみてください。
たとえばあなた一人だけが人間で、あとは全員がチンパンジーである会社で働いていたとします。
周囲のチンパンジーたちは餌や序列を巡ってケンカばかりしています。あなたがいくら科学技術の話や、それを仕事や生活に役立てるアイディアを説明してもわかってくれません。争いを収めようとして解決策を提示しても納得してくれません。餌(資金)が足りなくなったり、別の群れ(会社)から攻められても、仲間割ればかりしているので会社は潰れそうになっています。
そのチンパンジーたちの中で、あなたは序列最下位です。
彼らの世界では「相手を暴力で脅して従わせる力を持つ」方が、高い地位に就くのにふさわしいと考えられているからです。しかしあなたは感情的になることがなく、理性的に話し合いで解決しようとします。だからチンパンジーたちはあなたのことを怖がらず、馬鹿にしています。上位者にいじめられてムシャクシャしたときは、あなたをいじめて気分を直します。あなたのほうからは集団で襲うことはないので、復讐を恐れずにいたぶることができるのです。
チンパンジーの幹部たちも、あなたのことを面白く思っていません。いつも難しい話ばかりで、馬鹿にしているように感じるからです。そもそも序列最下位のあなたが意見や質問をするというだけで、相手のチンパンジーはメンツを潰されたと怒っているのです。おまけに新しい方法をどんどん試そうとするので、序列を基準に餌をもらっているチンパンジーたちはあなたを殺したいほど憎んでいます。

危うく殺されかけたあなたは、ほうほうの体で別の会社に逃げ込みます。そこは人間たちの群れで、あなたの提案や行動力を高く評価してくれました。肩書も給料も一気に上がり、とんとん拍子に出世しました。しかしそんなことはどうでもいいほど、毎日が充実して楽しかったのです。
そしてすっかり忘れたころに、前の会社が潰れたと聞きます。
「そりゃそうだよね、みんなまともに仕事してなかったんだから。どれが重要な問題で、どんな解決策が有効なのか誰も興味なかった。会社にとって利益になることと、害悪になることを区別できていなかった。俺があの会社に居続けたら、責任だけ背負わされて食い物にされるところだった。さっさと逃げ出して本当に良かった」
あなたは胸を撫でおろし、今の境遇に感謝するのです。

さて、結論を言いましょう。
「知能指数(IQ)が20違うと会話が成り立たない」
は本当です!

それはまるで、人間とチンパンジーの会話のようなもの。
人間は知能が高くなるほど、周囲の人々のやることがくだらなく思えてきます。しかしそれを表に出すと、集団リンチにかけられてしまいます。だからひとりで本を読むか、気の合う仲間とだけひっそり遊んでいるのです。高知能者が一生の間、ずっと孤独感や疎外感を味わっていることは想像に難くありません。

では、本当は恐ろしい逆のケースを考えてみましょう。
今度はあなたを含むすべての社員がチンパンジーである会社に、たまたま知能が高い「人間」がひとりだけ入社してきたとします。
あなたはその人の知能が高いことに気付くでしょうか。
その人の言っていることや、提案の意味を理解できるでしょうか。
その人をサポートし、集団リンチから守ってあげられるでしょうか。
「もう辞めたい」と相談を受けた時に「それがいい。あなたはここに居るべきではない」と背中を押してあげられるでしょうか。

ほとんどの人は、そんなことはできません。
あいつは変わっているからと、みんなで仲間外れにします。
上から目線で生意気だと、悪口を言って回ります。
コミュ障だと馬鹿にして、集団でいじめます。
罪をなすりつけたりでっち上げたりして、気分を晴らします。
このように、会話が通じないほどの知能格差があると

役に立つ高知能者を潰し、自分が大損していることにすら気付かない
のです。

これを他人事だとは思わないでください。
たとえあなたの知能が相当に高くても、上には上がいます。恐ろしく高い知能を持つ人から見れば、ほとんどの人はチンパンジー以下の脳みそしか持っていないのです。
あなたも知らないうちに彼らの邪魔をしたりイラつかせたりして、大きなチャンスを逃がしている可能性は十分にあります。

ここで落ち着いて、自分の過去を振り返ってみましょう。
あなたはアイディア豊富で向上心あふれる部下を、自分の手に負えないからといって低い評価しか与えていなかったでしょうか。
自分の頭で判断する選手を型に押し込めて、才能を潰していなかったでしょうか。
少し変わった子供の行動を頭ごなしに叱りつけて、委縮させてはいなかったでしょうか。
チンパンジー程度の知能しかない我々が「常識人として多数派の暴力」を振るい、確かな思考力や判断力を持つ人物の邪魔をしているのかもしれません。そしてみんなで大損しているのに、誰ひとりそのことに気付いていないのです。

無知は罪。しかも自分は罰せられたことにすら気付かない愚か者。

―――そう考えただけで背筋が寒くなります。

本書を書き始めたとき、私は「孤独感や疎外感に悩んでいる高知能者の人生を理解し、少しでも助けてあげたい」と思っていました。
しかし進めるうちに、そのカギを握っているのは普通の知能を持つ我々ではないかと考えるようになりました。
彼らをサポートすることで今よりも楽しく豊かな社会になるのだとすれば、我々がその意識を共有して努力する必要があります。これから「彼らが努力すること」よりも、「我々が気を付けること」のほうが多いはずなのです。

現代においては、「その国の上位5%の知能が国際競争力を決める」と言われます。
「知能指数105の常識人を量産するより、160以上の狂人をサポートして突っ走らせた方が強い」という構造の産業が増えてきたからです。
今は停滞気味の日本でも、高知能者が活躍できる場所を多く作れば米国並みの競争力を持つことができるかもしれません。またそれによって、普通の人々の能力も底上げできます。そして真の多様化がなされ、これまで以上に自由で豊かな国になるのではないかと考えます。

私には夢があります。
これまで日本で疎外されてきた高知能の人々に、活躍の場と幸福が与えられますように。
彼らを理解し支援する人々に、豊かな「おこぼれ」がありますように。
それと関係ない多くの人々も、この可能性に満ちた世界で幸せに暮らせますように。


電子書籍出版のお知らせ:「高知能者のコミュニケーショントラブル - IQが20違うと会話が通じない」 の目次と内容を一部お見せします


下記の電子書籍を2018年9月13日に発売します。
目次と内容を一部お見せします。
アマゾンのページはこちらです。

[電子書籍]

高知能者のコミュニケーショントラブル

- IQが20違うと会話が通じない





IQ20違うと会話が通じない!
みんなうすうす感じていても、口に出すことはタブーだった。高知能者は思考も表現も普通の人とはちがうため、孤立していじめられることがある。しかしそれは技術や社会の発展には大きなマイナスで、我々は自分たちが気付かぬうちに大損しているのだ。
知能が大きく違ってしまうと、高いほうの考えや悩みを低いほうは推測できない。また同じ知能指数40の違いでも、「160120」「12080」では受け取り方や関係が変わってくる。知能の相対位置によってそれぞれ異なる「非対称な悩み」が発生してしまうことが、この問題を複雑化させている。

高知能者の会話は主に「真理追究」「問題解決」のため。普通の人々は「共感」や「序列確認」のため。目的も通信方式も全く違うため、話をするだけでトラブルになってしまう。そのままでは理解し合えないことを前提に、コミュニケーショントラブルの軽減に努めるべきであろう。
「みにくいアヒルの子は白鳥の群れに合流すべし」「周囲にいる人々はそれを助けるべし」「変なやつでも受け入れて仲良くやるべし」など、高知能者たちが楽しく生きることができて周囲も恩恵を受ける関係づくりを提言する。

「なるほど、そういうことだったのか」と過去の自分を振り返りつつ、育てにくい子供や変人たちにも優しくなれる、目から鱗のコミュニケーション論!(約83,000字)


[目次]

まえがき:「IQが20違うと会話が通じない」は本当か

第1章 知能が高くなると友達が減る

 第1節 本書における「高知能」という表現について
 第2節 本書における「高知能」の目安
 第3節 世の中に高IQはどれぐらいいるのか
 第4節 知能が高くなると友達が減る
 第5節 高知能者はストレスが絶えない
 第6節 第一種過誤「周囲が気付かず高知能者を馬鹿にする」
 第7節 第二種過誤「周囲とうまく行かないのは自分の高IQのせいと思い込む」
 第8節 重要な「やや高知能」の人々

第2章 高IQから見た世界(非対称コミュニケーション)

 第1節 何でそんなことができないの?
 第2節 コミュニケーションの悩みは非対称
 第3節 相手がチンパンジーに見えるかも
 第4節 下から上は理解できない
 第5節 同じ知能指数の違いでも
 第6節 チンパンジーとの「会話」は成立するか
 第7節 多数派の暴力
 第8節 賢すぎて殺されてしまった「楊脩」の話
 第9節 民主主義って恐ろしい

第3章 摩擦の原因は「マウンティング目的の会話」

 第1節 霊長類としての本能
 第2節 序列意識といじめ問題
 第3節 現場リーダーの条件
 第4節 レッテル貼りと集団攻撃
 第5節 高知能同士ならトラブルは生じにくい
 第6節 会話中のノイズ処理に差
 第7節 そして僕はぼっちに戻る
 第8節 会話の形をしたマウンティング
 第9節 「意見」「質問」「事実の指摘」を侮辱と感じる人々
 第10節 関わるだけでも大損なのに

第4章 みにくいアヒルの子 - 高知能児の苦悩

 第1節 子供の頃から、かなり変
 第2節 勉強しなくても成績が良い
 第3節 学校の授業がつまらない
 第4節 簡単な問題が答えられない
 第5節 興味のあること以外は「どうでもいい」
 第6節 学業で成功しているとは限らない
 第7節 学習・集中・工夫する習慣を
 第8節 IQ120がリーダーに最適
 第9節 子供の高知能に気付かない親
 第10節 「親の敷いたレール」はソフトな虐待
 第11節 次第に「住み分け」を覚えるが

第5章 高すぎる知能は一種の障害

 第1節 馬鹿と天才は同じもの
 第2節 発達障害(ADHD・ASD)などとの関連
 第3節 2つの例外「2E」
 第4節 欧米のギフテッド教育
 第5節 「ギフテッド」の誤解とブランド化
 第6節 「察して欲しい」が、理解できない
 第7節 頭は良いけど、賢くない?
 第8節 深い思考に入ると「戻って来られない」
 第9節 男児はたいてい多動か自閉
 第10節 高知能女子は「普通の女の子」に擬態する
 第11節 仕事ができるとは限らない

第6章 序列社会になじめないサル

 第1節 見えているものが違うから
 第2節 嫉妬が理解できず、悪意に気付かない
 第3節 相手の思考が読めない恐怖
 第4節 知能が低すぎると能力差に気付かない
 第5節 他人の「思考の浅さ」「志の低さ」に失望
 第6節 高知能者による支配は安定するか
 第7節 魔女狩りに遭わないために

第7章 高IQを扱えなくなった日本社会

 第1節 なぜ知能格差は開くばかりなのか
 第2節 上位5%の知能がその国の経済に大きく貢献
 第3節 高知能者には辛い「今の日本」
 第4節 効率の悪い「結果平等原理主義」
 第5節 はびこる「奇妙な謎ルール」
 第6節 衰退の原因は「コミュニケーション原理主義」
 第7節 「誰とでも理解し合わなくてはならない」という呪い
 第8節 オタクには親切にしなさい
 第9節 日本と米国の差
 第10節 偉人たちはほとんど狂人
 第11節 繁栄と衰退のサイクル

第8章 高知能者の幸せな生き方

 第1節 知能の高い学校、そして知能の高い職場へ
 第2節 能力と志(こころざし)が道を拓く
 第3節 普通の人とは「和して同ぜず」
 第4節 辛いときは逃げるのもアリ
 第5節 時には力を示す
 第6節 高知能者同士で協力する
 第7節 区別か差別か


あとがき:人間社会の生態系 - 健全な多様性とは

2018年4月19日木曜日

「なぜ男は「そんなこと」で怒るのか」ゴマブックスさんから電子書籍およびPOD出版のお知らせ






2016年10月24日にKDP(キンドル・デスクトップ・パブリッシング)にて上梓した

なぜ男は「そんなこと」で怒るのか 解決脳と認知資源――男が怒る理由は2つしかない

が、ゴマブックスさんから電子書籍で出版されました。価格は1080円。POD(プリント・オン・デマンド)版もありますので、少し高価になってしまいますが紙で読むこともできます(1620円)。
https://tinyurl.com/y8ac74qx


…ただしこれを喜ぶ前に、いくつか謝罪しなければならないことがあります。
 
出版社さんから出すのですから、その廉価版となる私のKDP版(490円)は出版を停止します。しかしそれを事前にお知らせすると、出版社さんの売り上げを潜在的に減らしてしまうかもしれません。なのでひっそりと販売を停止し、ゴマブックスさんの手続きが進むのを待っていました。

ただ私も知らなかったのですが、KDPで販売を停止すると出版前の状態に戻ってしまい、Amazon内部でも検索できないようになるのです。この本を紹介してくれた人のリンクが、いきなり行方不明になってしまうということです。

リンクを無効にしてしまい、申し訳ありませんでした。

厚かましいお願いで申し訳ありませんが、上記サイトにて貼り直していただけるとありがたいです。


さらにショックだったのはKDPによる出版を停止すると、「出版そのものが最初からなかったことにされる」こと。すべての記録が消え去り、また最初から手続きをやりなおしになるということです。復活するのに手間はかからないのですが、取り消した時点の状態ではなく出版前の状態にリセットされてしまうのです。

これは辛いっすよー。私にとって自分が書いた作品は子供のようなものです。発表してからの記録が失われるということは、子供が小学校に上がるまでのアルバムを焼いてしまうようなものです。それを自分の手で執行しなければならないと知って、苦悩しました。

ただそれだけなら、自分の心を鬼にすれば整理がつきます。
折角の電子書籍化を白紙に戻すという選択肢はないので、やるしかありません。
しかし、

読者の方に書いてもらったレビューまで消えてしまうのは本当につらい

特に出版直後のレビューは嬉しいもので、子供が生まれた時に手紙と贈り物をいただくようなものです。おそらくそれは書いてくれた人にとっても同じでしょう。レビューひとつひとつに対し、愛着を持っていることと思います。

それを私がボタンひとつで「最初からなかったことにしてしまう」わけです。これはまるで子供が生まれた時にいただいた手紙と贈り物を、アルバムと一緒に焼いてしまうようなものです。やられて面白いはずがありません。

書いていただいたレビューを台無しにして、申し訳ありませんでした。

私の方は未練がましく、取り消し前の状態をテキスト・PDF・HTMLの形で残しています。もしレビューの文章を「返して」いただきたい方は、このブログに書き込むなどで申し出てください。何らかの方法でお渡しします。



この出版そのものは、大いに喜ぶべきことです。

  1. KDPで作品をまず発表し、
  2. フィードバックをもらいながら修正を加え、
  3. いずれ出版社さんから正式に出してもらう
という、想定通りに事が運んだからです。
私にとって新しい分野を開いてくれた、ゴマブックスさんには感謝しています。

しかし他の方が書いてくれたレビューを私の手で消してしまうようなことは、できることならやりたくありません。そのためには最初から商業出版を目指すべきなのかと考えたりもします。
アマゾンに履歴が残り、なおかつ出版社さんの電子書籍を邪魔しないような形にできるとベストなんですけどね。しかし大幅に加筆修正が必要な内容なら、最初からそれで出しているはず。悩ましいところです。


あ、本の内容は変わっていませんから面白いですよ。
私もたびたび読み返しては、笑い転げています。

自分の書いた本で何度も笑うなんて、
完全に頭がおかしい人です。

しかしこの本を読むと自分の怒りの原因がわかるので、客観視できるんですよね。
怒っている自分は確かにいるのですが、どこかでそれを楽しんでいます。

「あ、例のパターンだ。何度やられてもやっぱり腹立つわ」
「しかも三段重ねループときたか。これは新技認定してもいいだろう」
「またネタが増えた。続編もすぐ書けるな」

と他人事のようにとらえているのです。

家庭生活にも会社生活にも余裕が生まれるこの一冊。ダントツおすすめです。
書いた本人が言うのだから間違いない!
まだお試しでない方はぜひ!!!

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